“グローバル化”という名の植民地化


 以前、ヨーロッパ人は力ずくで、アフリカなどの国々を、自分の国のものとしてきた(ここら辺の話は良くは分かりませんが)。その血を受け継いだ人が、まだ人口の少ない国に移民してきた。その国はアメリカである。アメリカでは、確か植民地を持ったことはない。しかし、何とかして「自分の国のものにしたい」という気持ちは変わっていないようである。
 そこで、「自分の国のもの」化を進めるべく、新たな手法を思いついたらしい。それは、「グローバル化」である。ここで言うグローバル化とは、「制度〔基準〕」のこととして扱う。植民地とは無理矢理自国のものにする、と言うものであるが、グローバル化も同様、無理矢理自国の制度にあわせてしまう、と言うことである。(アメリカ以外の)世界の国々では「グローバル化を進めよう」と言われ、それにあわせようと、設備を投資など、お金が掛かる。しかし、アメリカの企業(要するに、その国で言う外資)は元々その「グローバル化」の制度でやってきている。つまり、“グローバル化”に対する投資をせず、既に別の用途に投資できるわけである。そしてその国の企業はグローバル化に遅れ、撤退を余儀なくされ、会社は閉鎖し...ということにもなる。
 確かに「制度」を作るのは、消費者に質の安定した商品の提供ができるわけで、完全的な悪者ではない。「グローバル化」の名においては、当然ながら、アメリカではない国でも、これらの制度を作るのはアメリカである。そして一方で「その制度にあわせなさい」と提唱しているわけで、ある意味で「自作自演」と言うことである。そして、その制度に合わせた国で、遅れた企業に対しては「これはビジネスなのです。仕方のないことです。」といわれ、買収なりをしていき、当然ながら甘い汁は、アメリカ企業のものとなっていくわけである。つまり、競争である(これも、アメリカでは至極当然の行為ですね)。
 その例が、ボトルウォーターである。2001年10月に、NHKで放送していた内容だが、インドでは飲み水事情が悪い。水道水は、出なかったり、出たとしても質が悪い。そのため、ボトルウォーターに頼る人が多いのだが、そのボトルウォーターは、結局水道の水をボトル詰めしたりするような悪徳業者もいる。それに目を付けたアメリカ人は、インド政府に「ボトルウォーターに対して安全基準を設けましょう」と提言し、実行することになる。インド政府も大喜びのようである。ところが、基準を図る機械が高いなどで、現地の中小メーカーはついていけない。結局はそういうメーカーは淘汰され、アメリカ資本の会社だけが生き残り、その会社の水だけが売れるようになる、と言うようである。これにより、質の高い商品のみ売られる。一方で、これはアメリカの自作自演である。もしアメリカの企業が撤退すれば、インドの国にはボトルウォーターと言う商品がなくなってしまう(現実的にはないだろうが)。
 パソコンでも同じ事である。長い間、日本独自規格のパソコンが、パソコンのシェアのほとんどを占めていた。これは、その規格のパソコンが、日本にあっていたからである(日本語表示など)。やがて、コンピューター全体の性能が向上することで、アメリカのパソコンでも日本語表示をたやすく扱えるようにもなった。そしてアメリカの複数メーカーが、パソコンについての新たな規格を提唱することになった。その“アメリカのメーカー”とは、Windowsを作っているメーカーのことで、日本のメーカーも、それに合わさないといけない。その規格は、アメリカの企業を守る規格であるはずである(逆に、その日本のパソコンは考慮していないはずである)。日本のメーカーは、「グローバル化だ」と、ついていくことになった。結果、日本のメーカー名が記載されてあっても、脳味噌の構造はアメリカ製である。例えば、SONYのVAIOというパソコンはものすごい人気のようだが、内部は「自作PC」とさほど変わらない(もちろん、デザイン的なものでは差があるが、VAIOにしかできないものはほとんどないはずである。性能が同じであれば)。このような事情になった理由は複雑だが、現に、純国産のパソコンは、普通のパソコンショップではお見かけできない。
 この先もし日本の多くの国民が、日曜日の朝にはキリスト教会に行き(悪いわけではありませんが、信教の自由があります)、ガソリンを良く喰う自動車を主な移動手段とし、家の中も靴を履いたままで、英語で話し、銃を持ち、パンと硬い肉しか食べない生活が「グローバル化」だとして強制されたら、どうしますか。競争や戦略しか考えないアメリカ人、やがてこれらを推し進めるかもしれませんよ。






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