開発途上駅安中榛名(夜間バージョン)訪問
1・序章
1997年10月1日に長野新幹線が開通して早3年が経過しようとしている。当時、私はまだ高校2年生だった。そして、私は長野新幹線の開通に際して一つの疑問が浮かんだ。それは安中榛名駅の存在である。開業前から、マスコミから存在を疑問視され、景気はバブルが崩壊し不動産や地価価値は下落の一途をたどっている最中の開業。不要なものには敏感な私にとってはこれほど魅力のある新駅は存在しなかった。私の第一印象は「くりこま高原越えたな」だった。しかし、高校生の私にとって新幹線駅の途中下車ほど難しく、無駄な旅行はなかった。しかも、駅周辺に何もないことは分かっての訪問である。この宝の山の訪問は先送りされ続けた。そしてようやく大学生になりアルバイトをするようになって自分の収入を持てたとき、この夢は現実のものとなる。
2・安中榛名駅訪問への道程
2000年の夏旅行は、ゴーゴー3DAYSキップを使用し東北を巡る旅行に決定したが、3日目(最終日)の帰京の予定時間が大宮到着の段階で19時であった(私は川口在住)。夜間ではあるが、有効期間が若干余る。疲労していることを考えればそのまま帰宅しても良いが、少し勿体ない気がした。しかも、東日本のフリーキップは「有効期間の翌日にまたがってご乗車する場合は、途中で下車されない限り乗車されている列車の終着駅まで有効です」(ご案内から抜粋)という特例がある。これを利用すれば新宿行上りの急行アルプスを利用できるのだ(長野発23時25分)。そこに私は着目した。大宮で友人と別れ、夜間の長野新幹線を調査することにした。さらに安中榛名の滞在時は夜になるのだ。これは貴重な体験になることは間違いない。予定が最終的に決定したとき私は興奮で気持ちが大きく動揺し、歓喜の気持ちでいっぱいだった。
3・安中榛名訪問当日
2000年の夏旅行も無事に行程が進み、予定通りに大宮に到着した。「スーパーはつかり」「E2系やまびこ」のリレーで帰京してきただけに、多少の疲労があるもののこの先のことを考えれば全く問題にならなかった。大宮で友人と別れ、私はそのまま18番ホームへ向かった。自宅まで目前にしながら信州へ再び旅立つわけで少し複雑な気持ちがしたが、ここからが第2の旅の始まりである。私は再び気持ちを旅立ちモードに切り替えた。
大宮駅の18番線、それは上越・長野新幹線の下り列車の専用ホームである。このホームにE3系やE4系車両が入線することはない。目を正面へやれば、倒産したが売り上げは好調な大宮そごうやアルシェビルが見渡せる。そこへゆっくりとした足取りでもう今回の旅で乗り慣れたE2系車両が入線してきた。あさま559号長野行である。E2系車両は全面のフォルムといいカラーリングといい私は大変気に入っているが、東日本のコーポレートカラーである緑色を新幹線の主力車両に投入しないのは不思議だ、素人には東海道新幹線と混同している人がいてもおかしくないように思えるのだが…。
早速乗車。指定された座席に向かう。すると、ほぼ満席であることにまず驚いた。長野新幹線の成功を窺わせる。ただ、日曜日なので東京帰りの人が多いこともあるだろうが…。長野の人は新幹線をかなり重宝しているであろう。開業当時のポスターにあった「長野は東京だ」のキャッチコピーにはさすがに興ざめしたが、あながち嘘ではないようだ。最速達の新幹線で79分(東京発の場合)、在来線時代のあさまでは軽井沢も危うい時間だ。当時の「あさま」に比べれば、首都圏の人間にとっても軽井沢や信州がとても身近になった。新幹線の力の絶大さを改めて感じる。
乗車したあさま559号は途中の新幹線駅に全駅停車する。次の熊谷でどの程度乗降があるのか少し気になる。自分も気持ちが落ち着いてきたところで列車は減速を始めた。上越新幹線と同じチャイムの後、熊谷到着を告げるアナウンスが入った「まもなく熊谷です。高崎線はお乗り換えです。お忘れ物の…」おや、何か忘れていないか?C58が走る鉄道会社を。お察しの通り秩父鉄道である。秩父鉄道も主力のセメント・石灰石輸送が低迷し、苦しい経営を強いられているそうだ。JR東日本は同業者の電鉄会社を見捨てているとしか思えない。確か高崎でも上信電鉄のアナウンスはなかったような気が…。
大宮出発直後は、夕焼けが広がり雲の量も多かったので幻想的な景色が広がっていていたがここまで来るとさすがに民家の街頭の明かりと、市街地の夜景が見られる程度になった。熊谷では僅かだが乗降があった模様。そして安中榛名での行動を考えてるうちに高崎に到着、10名ほどの降車があるもののここでも乗車がありほぼ満席の状態は変わらない。意外に自由席のほうが空いているかもしれない。高崎を出ると、これまで経験したことのない緊張感に体が硬直した。次は、今回の調査対象の安中榛名である。発車すると程なく安中榛名駅の到着案内が流れる。当然だが降車の準備を始める人は、私の乗った車両では皆無であった。佐久平までのキップを持っていた隣席の若い女性も怪訝そうな表情をしながら私を通してくれた。到着直前のデッキに立つ。私の後ろに並ぶ人は勿論いない。この列車で降車するのはもしかしたら俺だけかもしれない。全身に戦慄が走った。ホームに差し掛かる。緊張は臨界点に到達した。
4・ついに念願の安中榛名下車
空気圧の抜ける音がして、扉が開いた。真っ先にホームに降り立つ。「あっ」下車した人を発見。取りあえず、鉄道ファン一人のみの下車という最悪の事態は回避された。落ち着いて下車した人の数を数えてみる。その時点でいかに利用者数が少ないか察して頂けると思う。降車は15人程度であった。そのうち10人ほどは大きなスーツケースを持っているので、団体旅行帰りの地元の人であろう。到着時刻が20時ということもあろうが、観光客とおぼしき人は見受けられない。皆用務客のようだ。ちなみに乗車した客はゼロである。下車した人に続いて改札を抜けると、なんと観光案内所とおぎのやの売店はまだ開いていた。一人の人が双方の管理をしていた。「峠の釜飯」は何個売れたのだろうか?売れ残りの処理が心配だ。改札も有人改札は閉鎖され駅員の姿が見受けられない。そして、ゴルフ場の最寄り駅をアピールしてか?パッティングゲームができる特設会場があった。そこに東京行の新幹線を待っていると思われるゴルフバックを持った5人ほどのグループがパットゲームを楽しんでいた。駅舎を抜けてみる。下車した人には当然のように駅前のロータリーで送迎に来た車が待機してあり、目的地へ向けて出ていく。左手にバス停が見えた、そこには磯部行の黄色いバスがひっそりと停車していた。乗客がいるのか気になりバスに近づいてみる、乗客の数は当然ゼロ。「プシュー」運転手さんは俺を唯一の乗客と思ったのか、扉を開けてくれた。申し訳のないことをした。手を×の字にして乗車の意志がないことをアピールすると、扉が閉じた。この運転手さんも何度空気輸送をしたのか分からないほどであろう、群馬県は超車社会で路線バスは次々と数を消している。東武バスが経営を子会社に移設するほどだ。この路線バスを持つ会社も経営は苦しいだろう。すると定時を迎えひっそりと誰も乗客のいないバスは旅立った。新幹線とは当然接続しているダイヤのようである。時刻をチェックすると俺が見送ったバスは最終便であった。一日10本の設定があるようだが、廃止も意外と近いかもしれない。
しばらく歩くと歩道の終点に達した。その先は街灯もなく真っ暗闇、夜目が利かなければ一寸先も闇状態である。恐る恐る前進する、すると突然足に激痛が走った。なんと倒木が歩道の部分に放置されたままだったのだ。確かに徒歩でこの駅まで来る人は相当な根性の持ち主か馬鹿だけかもしれないが、痛みをこらえると同時に改めて空しさを感じずにはいられなかった。
それにしても、周囲は何もない、安中榛名駅は山の上にあり、遠くに目をやれば下方に市街地の夜景が広がっている。虫の鳴き声を除けば静寂そのもの、その上夜の暗がり。これほど静かで人里離れた地に来ることはそう滅多にないだろう。幸い今日は快晴だった。ふと空を見上げてみる。そこには満天の星空が空いっぱいに広がる。私はしばし恍惚に酔いしれた。人里では見ることができない素晴らしい夜空をなんと新幹線駅から僅かな徒歩で見ることができるのだ。人間には一人になりたいこともあると思う、そんなときは安中榛名駅を夜間に(昼間も同じであろうが)訪ねれば、そこは一人だけの世界が約束されているのだ。皮肉な話ではあるが…。
時間は限られている、調査を続けることにした。途中、安中榛名駅を通過する新幹線が上下二本通過していった。これほどの静寂である。列車の通過を告げる放送・空気を切り裂くE2系の走行音はとても良く聞こえた。安中榛名駅は駅前ロータリーの周囲に無料駐車場が広く完備され話題のパークアンドライドがしっかりと成されている。もし、駐車場も有料でかつ台数も少ないものであったらどのような状態に陥ってしまうのだろうか、想像するだけで恐ろしい。どうやら線路下を通り反対側に抜けられる通路があることが分かった。そこを通ることにする。正直、ジャンキーがたむろするには最高の環境が整っているので、一人である私にとっては恐ろしいことこの上なかったが、そのような人には会うことは無かった。それほど全く魅力がないのだ。周囲には娯楽施設と言ったものが一つとして存在していないのだから…。そして、反対側に抜けた。物音がしていたので人がいることは確かだった。近づくと一人の少年が必死にスケートボードの練習をしていた。誰にも邪魔されない、努力を誰にも見られない秘密の練習場としては最高の場所である。反対側も駐車場が広がり裏山沿いに道路が一本だけ通っていた。安中榛名駅を一度鳥瞰しようと思い、その道を登ってみることにした。登るにつれホームの明かりも遠ざかる。煌々とそこだけ光る駅の明かりと周囲の暗がりが微妙なコントラストを作り出し、人工ではあるものの幻想的な景色が広がった(私にとってこの駅は幻想的な物だらけだが)。鳥瞰して思ったが、これが霞ヶ関にいらっしゃるセンセイの権威とプライドが生み出した産物なのか。その額、30億円。長野新幹線に群馬県内に駅を求めた結果は想像を絶するものであった。しかし、この駅周辺も宅地造成が始まっているようで、駅と市街地を結ぶ通りの一本が通行止めになっている。駅には迂回路を示した掲示板とジオラマが展示してあり、この駅の行く末を期待させる。確かに駅の前の山は木が切り倒され重機で造成した痕が広がっていたが、これは公然たる環境破壊である。しかも最寄駅が新幹線駅では上手くいくのだろうか?何もないところにニュータウンを造成するも、隣駅の高崎に行くにも運賃が料金込みで1160円、軽井沢なら1240円もする。さらに東京へは4620円(自由席利用)。定期(FREX)だと1ヶ月105510円と天文学的な価格だ。前述を繰り返すが群馬県はもともと車社会で自家用車の所有率は全国でもトップレヴェルの水準にあり、つい最近まで路線バスが走らない市まであった程だ。それを考えればこの宅地造成で周辺人口の若干の増加は見込めても、新幹線利用に結びつくかは甚だ疑問である。とにかく発展途上の駅であるあることは確かだ。これからの同駅の動向が気になるところである。
さて、一通り駅周辺は巡った。駅前に商店があるわけでもなく、見る場所ももはやない。東京行最終列車の時間も近づいてきたのでホームに上がることにした。対向式ホームの長野方面へ行くと、先程いたゴルフ客と用務客3人の10人程がホームで列車の到着を待っていた。私は20時43分発の最終あさま556号を見送る。ゆっくりと列車が進入してきた。時間的に適当なのでほぼ100%の乗車率、発車してゆくと3人の家族連れが下車した。恐らく、駅前の駐車場に車を止めているのだろう。再び駅はいつもの静寂に包まれた。駅舎の吹き抜け上部にある長野方面ホーム上の待合室で瞑想していると、なにやら下にあたる改札前が騒がしい。東京方面は列車が終了しているので、長野方面の同志であることを期待しつつ下に目をやると、7人ほどの家族連れが例のパターゴルフをやっているが、どう見ても新幹線の乗客の装いではない。すると程なく帰っていった。恐らく、ドライブインの役目もあるようである。面白い物見たさかもしれない。この後もちょくちょく見学者があった。訪れる人は皆、この駅の存在価値を疑問に思い帰っていくに違いない。ローカル線の駅ではなく、新幹線駅なのだから。そんな姿が想像できた。
5・ついにお別れ安中榛名
ついに、安中榛名に別れを告げる時間が近づいてきた。ホーム上の垂れ幕が気になるのでよく見てみると、次のようなキャッチフレーズが書いてあった。どちらも首を傾げたくなるが「来る旅(度)に魅力を感じる安中榛名」と「安中榛名はみどころいっぱい」の2種類あり、両方ともその下に梅林・ゴルフ・温泉・湖・果物とあった。しかし、榛名湖へは車でも1時間はかかる距離である、駅名が新安中などであればまだ納得できるのだが…。駅正面の市街地に抜ける唯一の通りに(榛名→)という標識があったのが妙に印象に残っている。それは1本道を抜け国道に出れば榛名へも行けるだろうよ。と、思った。
安中榛名について抱いた感想は「全てにおいて空しい」この一言に尽きる。次の軽井沢に向かうための軽井沢行あさま561号の案内放送があった。エスカレーターから駅員が登ってきた。乗降が全くない状態で安全確認をしたことも恐らくあるだろう。声を掛けようと迷ったが結局やめた。この駅からの乗客は私一人であった。軽井沢行きということもあろうが到着した列車の乗客はほとんどない。乗車率3%と言ったところか、グリーン車に至っては僅か2人である。扉が開いた、地元客と思われる 7人が下車、これが本当に新幹線駅なのか信じられない光景だ。私が乗り込むのを確認し、武蔵野線の西側で聞ける発車ベルの後、扉が閉まった。私はデッキから、もはや今日は誰も乗る人がないであろうホームを見送り、ガラガラ自由席車の席に着いた。夜間、孤独との戦いだったが良い収穫であった。開発途上駅であるこの駅の健闘と繁栄を願わずにはいられなかった。北陸をはじめ東北・北海道新幹線でも同じ悲劇は繰り返されるのか。そうならないことを願いたい。また、10年後きっと様子を見に行くであろう。
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