射落畠

総 門

弓流しの跡

義経が自分の弓を海に落としてしまった為、
必死なって拾った所。
貧弱な弓の為、敵の手に渡ると笑われる。
駒立岩

満潮時には隠れてしまう。
与一が的を打つ時、安定す為に馬の前足を乗せた岩。
千國写真館
屋島から壇ノ浦

祈り岩
史跡
Counter

 しころ:兜の後ろ側のヒラヒラ。
 那須与一:平家物語に出てくるだけの人。他の書物には出てこないそうな。
錣 引

景清の綴引の伝説
源平合戦の時、平家の武士悪七兵衛景清と源氏の美尾屋十郎とが一騎打ちの勝負をした折り十郎が太刀を打ち折られて逃げ出すのを景清が逃がしてはならないと熊手を十郎の兜の綴に打ちがけたがいに引きあっていたが、遂に綴の糸が切れて、からくも逃げたという伝説があります。その時十郎が『景清の腕の強さよ』とほめ、景清は『十郎の首の強さよ』といって互に称賛し罵いたと伝えられています。
     源平屋島合戦八百年祭準備実行委員会     (説明板から)

屋島 壇ノ浦

源平合戦の地。
屋島から見た、現在の壇ノ浦
那須与一が的に当たれと祈った岩。
壇ノ浦から見た屋島。
扇の的の船が浮かんでた付近でしょう。
現在、民家の軒下に有ります。
祈り岩
源平合戦の時、那須与一が平家の船に立てた竿の先の扇の的を射る時この岩の所で『南無八幡大菩薩、わけても私の生れた国の神明日光権現、宇都宮那須大明神、願わくばあの扇の真中を射させ給え』と祈ったと伝えられ祈り岩と呼ばれています。「いのり岩」の字は、松平頼重公の臣箕輪野六の書と伝えられています。   源平屋島合戦八百年祭準備実行委員会      (説明板から)
駒立岩
源平合戦の時、那須与一がこの南方約数十メートルの祈り岩の所で神明に祈願し、この岩のあたりまで駒を進め足場を定めて、波にゆれ勤く扉の的をねらい射落としたので、駒立岩といわれています。
与一宗高は、下野国の住人で資隆の第十一子、射術にすぐれ、義経の命をうけ見事扇の的を射て昧万、敵方の平家方がらも大喝采を受けて、その名を後世にまで残しました。    (説明板から)
弓流しの跡
源平合戦の際、義経は勝に乗じて海中に打ち入って戦ううちヽ脇下にはさめていた弓を海中に落として、
平家方の越中次郎兵衛盛嗣に熊手をかけられ危うく海中に落ちかかりましたが、義経は太刀で熊手をあしら
い左手のムチで弓をかき寄せ引きあげたというとごろです。 平家方に拾われて『源氏の大将ともあろう者がこんな弱い弓を使っているのか」ともの笑いになるのをおそれたものだといわれております。
      牟礼町教育委員会       (説明板から)
総 門
寿永二年九月、平氏は安徳天皇を奉じて六万寺を行在所として(屋島檀の浦の行宮のできるまで)ここで門を構えて、海辺の防御に備えました。総門はこの遺跡です。 後、檀の浦に行宮をうつしてからもヽこの門を南部の重鎮として大いに源氏軍を防ごうとしましたがついに源氏の占領するところとなりました。当時この付近は海浜でした。
 標木は高松藩主松平頼重の建てたもの、碑は野津大将題、黒木欣堂撰書“夏草や”の碑は久保不如帰氏作。
       牟礼町教育委員会。     (説明板から)
総 門
寿永二年九月、平氏は安徳天皇を奉じて六万寺を行在所として(屋島檀の浦の行宮のできるまで)ここで門を構えて、海辺の防御に備えました。総門はこの遺跡です。 後、檀の浦に行宮をうつしてからもヽこの門を南部の重鎮として大いに源氏軍を防ごうとしましたがついに源氏の占領するところとなりました。当時この付近は海浜でした。
 標木は高松藩主松平頼重の建てたもの、碑は野津大将題、黒木欣堂撰書“夏草や”の碑は久保不如帰氏作。
         牟礼町教育委員会。    (説明板から)