(6)シルクロード(西安〜敦煌〜ウルムチ)12日間の旅・・・・・H15(2003)年4月13日〜 4月24日

(ホームページの制限容量に近づきましたので、写真は大きくなりません)

年老いた犬を他所に預けられないので夫婦別々に旅行することにしました。今回私は以前NHKのTVで見て憧れたシルクロード に旅をしました。今度の旅は秘境ツアーで定評のあるユーラシア旅行社にしました。参加者15人で、内男性の単独参加は4人、 女性の単独参加は3人でした。折りしも東南アジアを中心としてSARSの嵐が吹き始めた頃で、どうしようかと躊躇したのですが、広い中国でも西安より奥の方しか行かないので思い切って行く事にしました。

一日目 4月13日 成田→西安→(車中)曇

海外出張を除いて、単独で海外に旅行するのは初めてです。一番いやな洗濯など何から何まで自分でしなければならないので 気を引き締めて参加しました。YCATからバスに乗り7:30頃成田A.Pに到着。添乗員は日焼けしたうら若い元気の良さそうな 女性でした。手荷物検査の行列はSARSの影響でしょうか?全然並んでいません。やたらにマスクを付けた人ばかりです。こりゃまずいか、止めるなら今のうち、まあいいか行こう、など考えながら9:25飛行機に搭乗、JAS867西安直行便です。航空機はA300-600R。

成田空港西安上空西安空港

20分遅れの10:15離陸、南アルプスを下に見ながら米子から日本海に出て韓国のソウルを経て中国の天津上空に入り 西安に向かうようです。高度1万mからは下界はよく見えません。11時昼食。JAL系の食事は今ひとつです。偏西風が強くよく揺れました。14:25(以降北京時間)に一時間遅れで西安到着です。

西安の空港では誰一人マスクを付けている人はいなくてSARSなんか何処吹く風と言った状態で、日本から到着した旅行者は全員マスクをはずしました。後述しますが12日後は大変なことになっているとはこの時誰も予想していませんでした。西安は小さな空港で大型機など見当たりません。本日は夕方の列車で蘭州に向かう予定で、それまでの時間西安の簡単な観光をすることになり、西門に来ました。

西安の城壁西門シルクロード起点

西安は城壁で囲まれた町で東西南北に門があります。現在の城壁は明の時代(1370年頃)のもので、漢や唐の時代はもっと大きかったそうです。15:50〜16:30その内の西門を見学。右端の写真が西門のさらに西の窓から見た、これから旅の始まるシルクロードの起点です。

18:05西安発蘭州行き寝台列車、列車は黄土高原の麦畑を見ながらゆっくり走ります。寝台は4人のコンバートメントで男性の単独参加の4人で夜遅くまで語り明かしました。蘭州まで600km、約13Hの予定です。
軟臥とは日本のJRのグリーン寝台のことです。ドアには鍵がかかり、お湯の入った魔法瓶が置いてありました。
夜行列車の軟臥

二日目 4月14日 →(車中)蘭州 晴 

朝6時ころ目が覚めましたがまだ真っ暗、中国全土で北京時間を採用しているので中国の真ん中に当たるこの辺では6時半頃から明るくなりました。6:45蘭州到着。今晩宿泊するホテルに行き朝食を摂りました。ヨーロッパの高級ホテル並みの素晴らしいホテルです。その名は蘭州飛天大酒店です。
蘭州の朝 蘭州飛天大酒店

部屋に荷物を置き9:00観光出発。今日は石窟大仏のある炳霊寺の見学です。蘭州は黄河に沿った細長い町で、その黄河に沿って走ります。黄河は渇水期のようですが川幅はそれ程でもありません。蘭州の空は砂塵か公害か分かりませんが、霞んでいました。

蘭州郊外 劉家峡ダム 劉家峡ダムの奇岩

蘭州郊外まで来るとすっきりした青空になりました。しかし山にはほとんど樹木が見当たりません。横に黄河が流れているのにです。11:15トイレ休憩。勿論トイレの建物などありません。初めてのトイレが青空でした。中国の大都市以外の地方ではトイレはあまりにも汚いので青空のほうがましだそうです。

12:15劉家峡ダム到着。このダムは黄河を堰きとめて作ったもので中国でも有数の発電量を誇るのだそうです。12:15〜13:15ダムの横にある温室如きレストランで昼食。品数も豊富で美味しい。このダムから高速ボートで炳霊寺に向かいます。湖は奥行きが深く大きいが水深は浅いようで大型の船は使えないようです。進むにつれて奇岩がニョキニョキ突き出た所になり、目的地の炳霊寺です。

石窟は黄河の切り立った崖に彫られていてその数183で、西秦から清朝にかけて刻まれたものです。なかでも173窟の大仏は高さ23mもあります。大仏の上にある169窟は特に古い420年のもので特別料金(300元)を払って見学しました。急傾斜の壊れかかった梯子をよじ登らなければ到達出来ません。怖がりの女性は無理です。
炳霊寺大仏 石窟

16:03ボートでダムサイトに戻り元来た道を蘭州に引き返しました。

20:00〜運通飯店で夕食。丸テーブルに載りきらないほどの料理です。牛、豚、鳥、羊何でもありです。有名な蘭州ラーメンも出ましたが、味は??日本の方が○○。中に浮いているコリアンダが好きになれません。
21:05ホテル着。
蘭州の夕食

三日目 4月15日 蘭州→(車中泊) 晴 

蘭州の立派なホテルで6時起床。まだ真っ暗です。一人で寝るのも何だか落ち着かないものでした。戸締りやら色んなことが気になります。
今日は列車で酒泉まで行く予定です。8:30ホテル出発。8:45蘭州駅着。軟臥(グリーン)待合室で発車待ち。9:30蘭州発ウルムチ行き寝台特急に乗車。

車窓からの黄河 梨の花 黄土高原を走る
車窓からの祁連山脈 狼煙台 STOPした金昌駅

列車は18両編成の長距離寝台列車で、軟臥車両は1両しか連結されていません。この車両は飛行機並みに高いので現地の人は利用しないそうです。蘭州を出ると車窓から梨の花が咲いているのが見えます。列車は最初黄河に沿って走ります。列車の高度が上がってきたと思ったら左手に万年雪を頂いた祁連山脈が現れました。5000m級の山々が連なっています。東西800kmの祁連山脈の雪解け水は、雨の極端に少ないこの辺り一面の重要な水資源だそうです。12:50〜食堂車で昼食。ニラ炒めや豆腐などが出ました。数時間走るとだんだん砂漠のような景色になってきました。木もほとんど生えていません。漢代の狼煙台もところどころに見えます。

15:30列車がストップして動かない。2時間経っても、3時間経っても止まったまま。はるか前方の砂嵐のため、各駅で列車が数珠繋ぎになっている様子です。

20:00食堂車で夕食。今頃は目的地の酒泉のホテルにいる時間なのに、まだ半分しか来ていません。ここでどうするか添乗員、現地スルーガイドさんと協議、ただ動くのを待つだけでは能がないので、400km離れた酒泉からバスを呼ぶことになり待機。しかし夜遅く着くはずのバスも砂嵐で来れず朝になってしまいました。幸い寝台車なのでゆっくり寝ることが出来ました。

四日目 4月16日 金昌→安西  晴 

結局バスも来ず、列車も動かず朝になりました。列車は金昌と言う駅の追い越し車線に止まったままです。8:00朝食。食堂車で3回も食べるはめになりました。9:30バスが酒泉から到着。列車はまだ動きそうにないので途中下車して10:45酒泉に向かってバスが発車。先は長い。今日一日この小型のバスで安西まで900kmを走ることになります。着くのは夜中になるようです。

万里の長城 万寿寺木塔 張掖賓館の昼食

まず張掖に向かって進みます。この道は横に万里の長城が延々と連なっています。本来ならこんなに近くで見られないのに思わぬ儲け物でした。一部道の邪魔になるところを撤去した部分もあり、その断面が分かるのですが高さ10mくらい、厚み4mくらいでしょうか。泥の塊です。漢代のものの上に明が上乗せしたのが現在見られるものだそうです。泥に草を混ぜ込んで作ってあります。この辺りから集落を過ぎるとすぐ砂漠になります。

13:55張掖到着。バスから鎮遠楼や万寿寺木塔が写真に撮れました。本来なら見られなかったものです。14:00〜14:45張掖賓館で昼食、相変わらず盛り沢山の料理でした。

何回か青空トイレを繰り返し18:30酒泉(昨晩の目的地)の町を通過。18:50〜19:30嘉峪関見学。

嘉峪関 嘉峪関の建物拡大 万里の長城の終端

現在の嘉峪関は1372年に作られ何度も修復されたもので、高さ11mの城壁に囲まれた城内は3.3万uという広大な要塞です。建物は3棟残っています。城壁の上から万里の長城が延々と続いているのが見えます。これが北京の先まであるわけです。ここが万里の長城の西端になります。しかし効果があったのか疑問に思いました。10mくらいの梯子を掛ければ簡単に登れそうですけど。でも考えてみると人は乗り越えられても馬や戦車は越えられませんから効果はあったのでしょう。

19:45〜20:40嘉峪関の中のレストランで夕食。数回休憩をして4月17日午前1:00安西賓館に辿り着きました。長い一日で腰が痛くなりました。

五日目 4月17日 安西→敦煌  曇 

安西賓館 楡林窟全景 楡林窟入り口

中国もこの季節ここまで奥に来るとぐっと寒くなってきました。宿泊した安西賓館は暖房が無く寒さに震えていました。観光客は夏しか来ないらしく冷房はありました。6:00起床。何時間寝たのか?7:45ホテル出発。今日は楡林窟の見学です。安西を出るとすぐ砂利だらけの砂漠です。道路の横に1mくらい盛り上がっているのが点在しますが、墓だそうです。
楡林窟25窟北壁 楡林窟25窟西壁

楡林窟は安西の南68kmにある楡林川の両岸に作られた石窟で唐代から清代までの41ヶ所残っています。塑像はのっぺりした何処にでもある清代の修復で芸術的価値が無いようですが、見所は壁画、なかでも第25窟の壁画だそうです。壁画の内容は宗教活動を物語りにしたものです。第6窟は大きな大仏様で1階と2階から見れました。

洞窟内は体に浸み込むような寒さで震えていました。外の気温は−8℃でした。11:15楡林窟を出発しようとしたら、バスのエンジンが不調、あまりの寒さに水混入の粗悪品の軽油が凍りついたのです。バーナで燃料タンクを暖めたりして1時間くらいの格闘の末ようやく脱出、今度はバスに閉じ込められるところでした。


15:05敦煌賓館に到着。
15:10〜15:45ホテルで遅い昼食。
17:30〜18:50敦煌研究員の楊先生の莫高窟講義。 明日の見学の前に事前学習です。

20:00〜20:45ホテルで夕食
敦煌賓館 ホテルの室内

21:05〜22:00ホテルで飛天の舞のショウがあり見ました。これは莫高窟などの壁画に描かれた飛天を表した踊りです。若い女性(ホテルの従業員)によるしなやかで優雅な踊りでした。
このホテルで丁度建設機械の見本市をしていて中国共産党のNO.5が来ておりこのショウを見ていました。
飛天の舞ショウ

敦煌のこのホテルは2泊なので、今まで溜まった分の洗濯をしました。しかし突然お湯が出なくなったりして慌ててしまいます。周囲が砂漠ですから水事情が悪いようです。

六日目 4月18日 敦煌  晴 

本日はこのツアーの最大の見所の莫高窟の見学です。8:40ホテル出発、9:00莫高窟着。朝早く寒いのと、観光シーズンにはまだ早いので人も少ない。5月と9月は人出が多く一窟の見学毎に待ち時間が発生するそうです。

莫高窟遠望 莫高窟入り口 莫高窟大仏前

莫高窟は鳴沙山の東端の断崖に開削した大規模な石窟群で四世紀から十五世紀までの約1000年の間に作られたものです。現在492窟が確認されています。塑像や壁画は多少薄れたり、損傷したり、変色したり、海外に持ち出されたりしてはいますがほぼ明瞭に分かる保存状態です。石窟見学は1階と2階になっていて、通路に手すりが付いて歩きやすくなっています。
第328窟 第57窟

昨日講義して頂いた楊先生(日本に留学経験のある中年の女性)の案内で合計17窟見学しました。入り口を入って正面の大きな建物が莫高窟のシンボルになっている第96窟、高さ35mの大仏様が入っています。第328窟の塑像が唐代のもので最も芸術的造詣が深いと言われています。左端にあるはずの像がアメリカに持ち去られボストン美術館にあるそうです。
第57窟は最も美しいと言われる菩薩です。絵葉書やスカーフの絵として売られていました。平山郁夫氏が「恋人」と呼んだので有名です。なお洞窟内はカメラは勿論のこと荷物の持ち込みも禁止です。写真はパンフレット(280元)からです。

14:45莫高窟を出発、15:22鳴沙山到着。

鳴沙山 月牙泉と楼閣 ラクダに乗る

鳴沙山は吹けば飛ぶような細かい砂でできた美しい砂山です。砂利が全く混じっていません。左端の写真の山の上まで登りました。頂上から下に月牙泉と楼閣がよく見えます。月牙泉は漢代の昔から枯れることなく湧き出ているそうです。ここで往復1kmくらいラクダに乗りました。二瘤だから安定しているのですが、以外によく揺れます。

17:00敦煌賓館に戻りました。夕食まで時間があったので一人で近くの市場を散歩、干し葡萄をいっぱい買わされてしまいした。

七日目 4月19日 敦煌→ハミ  砂曇 

5時に目が覚めてしまいましたがまだ真っ暗です。今日は敦煌の近くの観光の後、いよいよ新疆ウイグル自治区に入ります。

玉門関入り口 玉門関 陽関の烽火台

7:45ホテル出発、町を出るとすぐ砂利砂漠、周りには建物らしきものが全く無い砂漠の中を何処までも走ると玉門関入り口になります。9:10着。ちゃんとこんな所にもお土産やがありました。ここは漢の時代の最西端の軍事基地で、現在残っているのは大きな泥の塊だけです。寒風がびゅうびゅう吹き荒れていました。当時の軍人達はさぞかし辛かったことでしょう。この玉門関と50km離れた陽関の間に点々と烽火台でつなぎ匈奴の侵入に備えたのだそうです。

10:45陽関到着。最近作ったと思われる城壁や博物館ができていましたが、漢代のものは烽火台のみです。その昔王維が「西の方陽関を出ずば故人無からん」と詠った関所です。こちらの方は近くに川も流れ葡萄畑もあるオアシスでした。

11:45陽関出発。12:20西千仏洞に来ました。ここも莫高窟と同じように川の横の断崖を削って作られています。北魏から唐の壁画が16ヶ所残っていますが、残念ながらほとんど損傷していて原型を留めていません。
西千仏洞新疆ウイグル自治区

敦煌の町に戻り13:15〜14:00麗国賓館で昼食。
14:08敦煌を出発してハミ(哈蜜)に向かう。敦煌から柳園までどこまでも真っ直ぐな道が続きます。

それが終わると星星峡と言う所から新疆ウイグル自治区に入りました。しかし月の砂漠じゃなかろうかと思われるような不毛の台地に感じられます。
数回青空トイレを繰り返し夕方6時頃、遠くに万年雪を頂いた天山山脈の東端が見えて来ました。

20:00ハミ(哈蜜)到着。ホテルは哈蜜賓館です。21:00〜22:00ホテルで夕食。

八日目 4月20日 ハミ→トルファン  晴 

6:10起床、かなり寒い。
7:00〜7:50ホテルの周囲を散歩
8:30〜9:00ホテルで朝食

ハミは新疆ウイグル自治区東部の中心地で人口33万人、ハミ瓜の産地として名が知られています。
哈蜜賓館
アティカルモスク モスク内部 ハミ9世の王廟

 
9:30ホテル出発、9:40〜10:25モスク見学。ハミ王国は清朝を後ろ盾にウイグル族の地方政権で、1697年から1930年まで9代223年に亘ってハミを統治し、その王族がここに眠っています。アティカルモスクはイスラム様式の寺院で1668年完成、5000人収容できるそうです。ハミ9世の王廟は屋根はモンゴルのパオ、外回りは漢、内部はイスラム様式で当時の外交の苦労が伺われます。この後ハミ地区博物館を見て、朝のホテルに戻り昼食を摂りました。

 
カレーズと天山山脈 石油井戸 砂山公園

12:40トルファンに向かって出発。13:15景色の良いカレーズで休憩。カレーズとは高い山の万年雪からの雪解け水の地下水脈を見つけ、竪穴と横穴で地下水路を作り畑などに導く方式で起源はイランのようです。

石油井戸も車窓からよく見えます。なんで砂漠にばっかり石油が出るのか日本人としては腹立たしいことです。17:00ピチャンの砂山公園到着。入り口の階段を登ると突然視界が開け美しい砂漠が出現します。本当に綺麗な砂山です。砂利砂漠ではありません。火焔山を右手に見ながら19:00トルファンに到着しました。ホテルは緑州賓館(オアシスホテル)、2泊です。20:00〜21:00ホテルで夕食。夜2回目の洗濯をしました。

九日目 4月21日 トルファン  晴 

6:50起床。今日は盛り沢山のトルファン観光の日です。

緑州賓館 ホテルの朝食 葡萄棚道路

左の写真が2泊した緑州賓館(オアシスホテル)です。敦煌に比べて従業員の態度が横柄です。教育の問題でしょうか?朝ホテルの近くを散歩すると葡萄棚の遊歩道路が続いています。こちらの葡萄の木は新芽が出始めていました。敦煌では丸坊主でしたが。朝食はウイグル地区に入っていても羊の肉がある他は今までと変わりません。
 
ベゼクリク千仏洞 アシターナ古墳 古墳入り口

9:00ホテル出発。火焔山を左手に見ながら9:30からベゼクリク千仏洞を見学。火焔山の谷間から流れる川の淵に唐、宋、元の時代に王族や貴族が競って作った石窟群ですが、イスラム教徒の破壊や外国探検隊の剥がしで見る影もありません。雰囲気が分かる程度です。

続いて10:40〜11:05アシターナ古墳群の見学。高昌国住民と唐の西州住民の墓地で273年から778年のものです。地中にある墓室に斜めに参道があり、絹織物、陶器、古文書などの副葬品が多く発見され、壁画やミイラも残っています。2基見ました。

高昌故城ロバ車 高昌故城中心 高昌故城ラクダの親子

11:15〜12:10高昌故城見学。ここは漢代に砦として築かれ、その後高昌国の都として繁栄していた所で周囲5kmに遺跡が残ります。入り口からロバ車に乗って中心まで行きます。建造物は原型が分からないほど風化しています。玄奘三蔵がインドに行く途中立ち寄って説法したと言われ、三蔵を手厚く保護したのだそうです。

12:25〜12:45火焔山で写真Stop。草木が一本も生えない荒涼とした山です。東西100km、南北10kmの山で夏になると地表からの陽炎によって燃えているように見えるそうです。
火焔山 火焔山山肌
トルファンのバザール カレーズ

午後からバザールを見て回りました。しかしバザールは何でも売っている所です。食料品、日用雑貨、絨毯、嗜好品、道具類、お菓子、ラーメン屋、餃子屋など何でもありそうです。片足のサンダルでも売りそうな勢いです。皆さん干し葡萄を買いました。300円〜500円/kgです。

16:15〜16:50カレーズ博物館見学。竪穴と横穴が交差する所を見ました。特に横穴を掘り進むのは大変だったことでしょう。なんでも囚人を使ったとも言われています。

交河故城入り口 交河故城中心 交河故城端部

17:30〜18:25交河故城見学。2つの川が交わる高台にある城址遺跡です。唐代に作られたものですが、原型のはっきりしたものはありません。両側が切り立った崖でその中にありますから天然の要塞だったことでしょう。

18:55〜20:00ウイグル族民家訪問、ナンとお茶のもてなしに加えて少女の踊りの披露がありました。
ウイグル族民家訪問 少女の踊り

20:15ホテルに戻りました。夕食は子羊の丸焼きでした。

十日目 4月22日 トルファン→ウルムチ  晴 

8:30ホテル出発。ウルムチに向かって高速道路を突っ走るとやがて右手に天山山脈が見えてきました。
天山山脈 風力発電群

真っ白な万年雪をいただいています。雪解け水のためか、この辺りからトルファンまでの砂漠から草原に変わりました。風力発電も盛んなようです。

11:20ウルムチ到着。
11:30〜12:40新疆ウイグル自治区博物館見学、代表的な展示品は日本にも来た「ローランの美女」です。羊毛の帽子に羽をさし絨毯にくるまって眠っているミイラです。新館工事中でした。
新疆ウイグル博物館 カザフ族のゲル

13:37〜14:20阜康のレストランで昼食後、天池に向かって山に入って来るとカザフ族の居住区になりゲルが点在します。このゲルに宿泊することも出来るそうです。西安からここまでに山に木が茂っているのはここだけです。
14:45〜15:45天池観光。最近の異常気象で池の氷がまだ解けていません。先週にも雪が降ったそうです。
天池 ボゴタ山(5445m)

本来なら青々とした湖面に浮かぶボゴタ山の絶景が見られるはずなのに乗っても平気なくらい氷が張っています。

17:30天池からウルムチに引き返しバザールを見学。バザールのそばでSARSの説明をしておりました。遂に中国最奥地のウルムチまでSARSの危険がせまりました。
SARSの説明 ウルムチ市内

なおウルムチの中心街は高層ビルが林立する大都会です。人口144万人。

19:00ホテル着。ホテルは美麗華酒店5星です。20:00〜21:30レストラン楼蘭清真餐庁で夕食。

十一日目 4月23日 ウルムチ→西安  晴 

8:00ホテル出発、8:30ウルムチ空港着。空港は新しく立派です。時期はずれなのにハミ瓜やメロンなども売っていました。
9:25ウルムチ発
12:15西安着
中国南方航空CZ9235便。B-757型機。飛行時間は3時間近くかかりましたが、上空から真っ白な雪で覆われた山々が見渡され綺麗でした。
ウルムチ空港

秦傭博物館 兵馬俑 馬車

西安の空港で食事した後、14:15〜16:10西安の観光は最初に兵馬俑の見学です。大きな体育館のような建物の中に沢山の兵馬俑が並んで立っています。後ろのほうはまだ掘り起こしてありません。1号坑から3号坑まであります。

16:15〜16:50秦始皇帝陵見学。山全体が墓で、その地中に金銀財宝が山のように埋まっているとか?石段が上まであり、上からの景色もなかなか良かったです。
始皇帝陵 陵の上から
華清池楊貴妃像 華清池 楊貴妃の風呂
 
16:57〜17:45華清池見学。玄宗と楊貴妃とのロマンスでしられた保養地です。池のほとりに現代版楊貴妃の像が最近作り直されました。以前の像は現在の人が見たら避けて通るほどだったそうですが、美的感覚が今と昔では違うのでしょう。玄宗や楊貴妃が実際に使った風呂も残されていました。ここは現在も43℃のお湯が湧き出ていて手で触れることが出来ました。(5角也)

鐘楼 西安中心 徳発長の餃子

夕方西安の中心の鐘楼に来ました。日本版鐘付堂で堂々たる建物です。そこから見える道路も幅広く、古いものと共存させながら都市計画がされていると感じました。19:35〜20:45徳発長で16種類の餃子の夕食でした。有名な店のようですが、横浜中華街のほうが美味しいと思います。21:00ホテルに入りました。


十二日目 4月24日 西安→成田  晴 

西安のホテルは西安皇城賓館(4星)です。
5:20起床。今日が最終日になってしまいました。
7:00〜7:30朝食。
4星だが立派なホテルでした。
皇城賓館
玄奘三蔵 大雁塔 慈恩寺と西安展望

今日の午前中いっぱいは西安観光です。8:00ホテル出発。
8:30〜9:30慈恩寺の大雁塔を見学しました。慈恩寺は648年唐の高宗により建てられたもので、現在当時の1/7の規模に縮小されてはいますが山門、鐘楼、鼓楼、大殿、大雁塔からなっています。

大雁塔は玄奘三蔵が652年インドから持ち帰った経典や仏像を保存するため作られたものです。7層で高さ64mです。20元払って登りました。眺めは良かったのですが、苦労して上がったわりには展望出来るような構造ではなく、光り取りの窓から覗くようなものでした。慈恩寺では僧侶も見かけましたので実際の宗教活動もなされているようです。

陝西歴史博物館 出土品 彩陶瓶

9:45〜11:30 最後は陝西歴史博物館の見学です。中国有数の博物館で先史時代から清までの文物が陳列されています。参観ルートの全長は1.6kmにもなり足がくたびれます。見逃せない展示物に写真の獅子像を始めとして、先史時代の彩陶瓶、殷周代の青銅器、前漢の瓦、唐の墓の壁画や唐三彩など3000点があります。

12:30〜13:30すべての観光が終わり、西安空港のレストランで昼食。
14:30出国手続き
中国全体でSARSが広がり西安空港では空港職員、乗員、乗客すべてがマスク着用していました。

15:05西安発JAS JD868便(A300-600R型機)→
19:44成田着。 飛行機はSARSのためガラガラでした。

夜10時過ぎ自宅に戻りました。寒くて風邪をひきましたがSARSではありませんでした。  完




旅の感想

SARSの騒ぎにもめげず中国に行って来ました。中国といっても西安より西の方だけです。 西安より西の中国は広い。となりの町に行くにも数百kmもあります。そしてその間は見渡す限りの砂漠、山には草木が生えていません。

砂漠だから水事情が悪い。突然お湯が出なくなったりします。空気も悪く霞んでいます。トイレはもっと 劣悪です。日本の50年前の農家と同じです。青空の方がましだと言うのは本当です。(大都会は違います)

4月の西安や蘭州の気温は日本とそれほど変わりませんが、酒泉より先はぐっと寒い。楡林窟 では-6℃にもなり粗悪品のバスの燃料が凍り付いてしまいました。洞窟の中はどこも深々と冷えこんで説明はともかく早く 出たくなります。

敦煌近郊の鳴沙山やピチャンの砂山公園の砂漠はサラサラの吹けば飛ぶような綺麗な砂漠です。 砂漠とはこんなに綺麗なものかと認識を新たにします。しかし大半の砂漠は砂利と砂が混じった砂漠です。この砂利混じりの 砂漠は「ゴビ灘」と総称されます。中国は建設資材としての砂利には永久に困らないことでしょう。

寝台列車に2度も乗りました。久し振りでした。寝台が軟臥と言っても少し硬いと思いました。 コンバートメントなのでドアに鍵がかかり安心して寝れます。車輌は東ドイツ製でした。

蘭州での黄河は全体から見れば中流域ですが、川幅は日本の大河よりは少し広いかなの程度です。なお現在は渇水期のようです。ドナウ川の方が広く水量もあります。

砂嵐には困りました。日本で4月頃黄砂が飛んでくるあれの元です。中国では列車の運行の安全基準 が最近制定されたそうです。人を乗せる列車は風速○○メートル以上は運行停止。貨物列車は・・・

肝心な莫高窟について遅くなりました。ここを見るのがシルクロードの旅の最大の目的 でした。素晴らしい壁画や塑像が数え切れないほど残っています。4面の壁と天井は壁画で完全におおわれています。天井には 飛天が舞っています。日本の高松塚など問題ではありません。ここを見ればそれでよいのです。でも写真入りの説明書が280元 (4,200円)とは、こちらの足元を見て一寸高いのでは?他に西千仏洞やベゼクリク千仏洞も見ましたが異教徒の破壊で見る影も ありません。

高昌故城と交河故城も見ました。もう廃墟以上の泥の塊が残るだけで、当時を想像することも 出来ません。その昔何かがあった程度にしか分かりません。

子供のお土産売りのしつこいのには辟易してしまいます。学校にも行かず働かされているのには 同情しますが、あんな小さな子供にあんなことさせるなと言いたい。
 中国の女性は強い。ルール違反を注意されると 猛然と反撃してきます。自分に非があるのにどうしてでしょうか?

砂漠地帯を走っていて感じるのですが、川の跡が沢山あるのに全く水は流れていません。 上流で水を灌漑用に横に出してしまっているようです。大雨の時だけ流れるようです。

畑も多く見かけるのですが、今にも砂で埋まりそうです。しかしビニールの切れ端が土の中やポプラの木に 沢山引っかかっています。防寒用のビニールシートをきちんと取らないで次の耕作をしているのではないでしょうか。

一般に道路が良くありません。高速道路でもくぼみがあり徐行する時があります。 トラックの荷の積み過ぎに原因があるそうです。

シルクロードはほとんどバスの旅でしたが、日本の観光バスをイメージすると期待はずれです。 日本の30年ほど前のバスと思えば間違いありません。長時間乗ると腰が痛くなります。

食事はいつも丸テーブルに盛りだくさん出ます。残してもったいないと思って しまいます。蘭州ラーメンに浮かんだコリアンダだけはご勘弁を。

兵馬俑は想像以上に規模の大きなものでした。まだ前の方だけしか掘り起こしていません。 始皇帝陵にしても山全体がお墓です。この下に金銀財宝が山のように埋まっているようです。

帰りの帰国の際、西安空港を飛び立つと下に黄河が延々と流れているのがかなりの時間みえました。 黄河に別れを告げ、うとうとしながら始めてのシルクロードの旅の思い出にふけっていました。

この感想文であまり良いことばかりを書きませんでしたが、しかし日本人は中国を、日本文化の源泉として憧れと羨望の眼差しで見ているのです。秦、漢、唐、明の時代の古代中国です。漢詩や漢文に出てくる「四面楚歌」された城を見てみたいとか、「呉越同舟」の渡し舟に乗ってみたいとか、「背水の陣」とはどんな川での戦いなのかとか、想像しただけでも胸がときめきます。また近いうちにぜひ尋ねたいと思います。

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